このブログは海外で日本語を教えたり、海外で日本語を学ぶ人たちと関わったことのある日本語教師の、現地での忘れられない瞬間を共有する場所です。
あの時、あの場所での、忘れられない瞬間、心から離れないエピソード、目に焼き付いた情景、人生の宝物のような永遠に止まった時間・・・etc.etc.をみんなで紹介しあって、ワクワク・ドキドキしたり、ゲラゲラ笑ったり、しんみり考えさせられたりしましょう。
読んだ感想や、自分もこんなことがあったよと言うコメントや質問など、どしどしコメント欄に書いてください。
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ベルト無いがあ!
#バングラデシュ #1990 #タイムスリップ #そら耳 #ご当地語 #hoshitoru
バングラデシュに住んでいたのは1989年から91年の2年間、ちょうどヨーロッパではベルリンの壁が崩壊してからソ連邦が解体されるまでの間、日本では高度経済成長が完成し、バブルの絶頂期に向かう時期だった。一方バングラデシュは、そんな世界の情勢にはお構いなく、十年一日、いや百年一日のごとく経済は停滞し,社会は閉塞していた。そんな世界で自家用車のオーナーになるのは当時のバングラデシュの庶民にとっては高嶺の花なのだが、私は日本車のオーナードライバーであった。といっても超中古のポンコツのダイハツシャレードを乗り回していただけだが、少なくとも私の車はフェンダーミラー付きではあった。なぜフェンダーミラー付きとわざわざ断るかと言えば、当時首都ダッカの町を走っていた車の、とくにタクシーのほぼ100%はフェンダーミラーがなかった。おそらく現地の中古者ディーラーが取り外して家庭用の鏡として売り飛ばしたか、運転手自らが自分の家の洗面台用に使っていたかのどちらかである。ちなみに運転席のバックミラーはついてはいるが、それは決まって明後日のほうを向いている。つまりダッカの運転手はミラーというものを見ないのだ。バングラデシュの車社会には独特の文化があって、日本とは全く違っているのだが、こんなバングラ話をするとたいていはホラ話と思われるに違いない。例えば、左右の指示灯を点滅させる、いわゆるハザードランプはバングラデシュでは直進の意思表示に使われる。また、クラクションは主に車道を平気で横切ろうとする歩行者を追い払うために使うのだが、もう一つの機能として、車が発信するときの掛け声代わりに用いられる。そのため、交差点で止まっていたすべての車が、信号が青になったとたんにハザードランプを点滅させながら、一斉にクラクションを鳴らすという現象が起こる。
ところで、現地の言葉であるバングラ語は日本語とは全く系統の異なるサンスクリット系の言語だが、たまたま日本語と類似している特徴もある。例えば語順は日本語と同様SOV(主語―目的語―動詞の順)だし、否定の助動詞は文末にーnaまたはーnaiをつける。例えば、「私はご飯を食べる」は”Ami(私)Bhats(飯)Kai(食べる)”だし、「私はベンガル語を話さない」は”Ami(私)Bangoli(ベンガル語)Bori(話す)Na(ない)”である。ついでにお茶はベンガル語でも”Cha”と言い、「お茶が無い」は”Cha(茶)Nai(無い)”だ。
ある日のこと、私のポンコツ車がモウレツ元気がないので、かかりつけの修理屋に持っていった。その修理屋は、わがポンコツ車のつるつるになっただるまタイヤがパンクするたびに何度も何度もゴムで穴を塞いで再生してくれたすご腕の職人だ。彼はその時、車のボンネットを開けたとたん、口をあんぐりとあけて「ベルト無いがあ!」と叫んだのだ。一瞬私はタイムスリップした心持ちになった。「え、ここはどこだっけ?たしか、日本ではないはずだが…。」しかし、そこはまぎれもなくバングラデシュのダッカだった。そのおっちゃんはまぎれもないベンガル語で”Beruto(ベルト=空冷のファンベルト)Nai(無い)Ga!(感嘆詞)”と言ったのだった。
#タイ#1996 #悪夢・トラウマ #迷子 #ご当地語 #文字・数字・番号 #hoshitoru
この歳になるまで(どの歳だ?)長い間、日本語教師をしてきたが、30年前にタイの大学で日本語を教えて以来、いまだに繰り返し見る悪夢がある。それは「ある朝」の大学の1限の授業開始の5分前という緊迫した状況からスタートする。今日の担当クラスの教室はどこだったか、教員室の壁に貼ってある教室一覧表を見るのだが、さっぱりわからない、さて困った。当時、困ったときは、いつも同僚のタイ人教師に聞けば大抵の問題は解決するのだが、朝は皆、早々に自分の受け持ちのクラスへ行ってしまい、教員室にはだれもいない。そうこうしているうちに授業開始1分前になり、ついには開始時間が過ぎてしまう。とりあえず、先週と同じ教室に行けばよいだろうと思い、教科書と大量のプリントを抱えて廊下を歩き始めるのだが、はて先週の教室は何階だったか?、地下だったか?、あてずっぽうで行ってみるが、どうもそれらしい部屋が見当たらない。他のフロアも試してみるが、日本語の授業をやっていそうなところはどこにも無い。大学の建物は巨大で、しかもいくつかの棟が複雑につながっている。いつかは自分のクラスを発見できるだろう、顔見知りの学生たちがいたら入っていって、さて何て言い訳したらいいだろう?などと考えながら、速足で歩くのだが、一向に目的地に到達しないまま授業時間が15分、20分と過ぎてゆく。そもそも自分の目的地はどこなのか。夢の中の自分は焦りながらも「まるでカフカの小説の主人公みたいだ」などとくだらない妄想に少しだけ浸る。人間、焦りが極限に達すると、どうでもいい無意味なことを考えるという「自己制御本能」が発動するらしい。「うむ、さすがにこの時間になると学生の誰かが、異変を感じて教員室へ向かっているのではないか」とは思うものの、今から教員室に戻るのにさらに20分以上かかるだろう・・・。その上、今自分がいる場所から元の教員室にちゃんと戻る自信すらない。このまま授業の終了時間まで、いやきっと永久に、自分はどこへも到達できないだろうと、まるで砂漠の中心で叫んでいるように、キャンパスの一角で絶望している自分がいる・・・というのが、ざっとかいつまんだエピソードである。
この悪夢は、夢らしくかなりの誇張があるにしても、タイ時代に実際に経験した事実に基づいている。この経験が自分の中でトラウマとなり、夢の中での自分は、迷路のような大学構内を亡霊のように永遠にさまよい続けているのである。繰り返し見る夢は、タイの大学ばかりでなく、他の国での所属機関であったり、日本の、その時その時に所属している日本語学校だったりと、さまざまなバリエーションがある。
そもそも、なぜこのような事態に至ったのか。それはひとえに当時の(今はどうか知らない)タイという国では、日常的に使う数字がアラビア数字でなく、タイ独自の数字を使っていたからなのである。というか、より公正な言い方では、タイへ赴任する際にタイ数字を学ばなかった自分が悪かったのである。タイ数字が読めなければ、教室番号も読めず、教室が探せないことは自明の理である。あの42個の子音と9個の母音や声調記号が組み合わさったタイ文字の勉強はある程度したものの習得したとは言い難い。しかし数字のほうは十数個覚えればよいわけで、頑張ればマスターできたはずなのに、あえて覚えようとしなかった自分は、タイ数字を甘く見ていたのだ。自分の中で、「世界ではどの地域でもアラビア数字が主流で、その国独自の数字があったとしても、日本語の漢数字と同様、やや特殊なケースしか使われないのだろう」という予断があったのだ。こうした予断はものすごく危険であると、今となっては声を大にして言いたい。タイだけではない。バングラデシュなどのサンスクリット語圏や、その他の東南アジアの国でも独自の数字がある言語は珍しくない。これからアジア圏へ出かけていく皆さんには是非とも申し上げておきたい。その国の言葉はマスターしきれなくとも、とりあえず数字だけは必ず覚えて行ってください!いいですか。
長年日本語教師をやっているといろいろな仕事を経験する。教材作りはきっとみなさんやったことがあるのではないだろうか。教材作りといっても授業で使う簡単な練習問題のようなものから長い時間かけて開発する1冊の教科書、最近ではオンラインで日本語を学ぶためのウェブサイトやツール、アプリの開発までいろいろなものがあると思う。
ある国で教科書の制作を手伝っていた時のこと。原稿もすべてそろい、あとは音声の録音だけという段階になっていた。日本語発音のチェックのために一緒に来てほしいと現地の先生に頼まれて録音スタジオについて行った。声優さんはみなさんボランティアの日本人協力者だったが最近の若い人はこういうことになれているのか、何も問題なく録音を終え、オフィスに戻った。しばらくして担当の先生がこまった顔で私に言った。
「先生、一つ録音するのを忘れていました。」
「ええ、そうですか。」
「ここには日本人は先生だけですから、今からその部分だけおねがいしてもいいですか。」
わたしは仕方がないので、「はい、私の声でよければお手伝いします。」
「よかった、それじゃあ、原稿はこれです。」
原稿を見てわたしはおもわず、「ええっ、これですか。わかりました。がんばります。」
原稿には、①パオーン、②ワンワン、③ニャーニャー、④コケコッコー、⑤ヒヒーン、などと書かれていた。
その教科書は今でも某国で販売されていて、多くの学習者がそれを使って日本語の勉強をしている。音声データも豊富で評判もいいと聞いている。日本語では動物の鳴き声はどういうのか、今日も誰かが私の声を聴いて学習している。
タイという国には2度長く住んだことがある。1度目はバンコクとチェンマイの中間あたりに位置する地方都市、そこの大学で日本語を教えた。2度目はそれから10年後、バンコクでの勤務だった。バンコクで勤務しているときの出来事である。妻と小学4年生の娘と一緒にバンコクに住んでいたが、ある日、娘を大きな病院に連れて行った。確か耳鼻科の受診だったと思う。バンコクの大病院は医療ツーリズムで中東などの国からたくさんの患者さんがやってくるくらい、技術も設備も整っているとの評判であった。いろいろな国から患者が訪れるので、医師とのコミュニケーションために、いろいろな言語、英語、フランス語、中国語、韓国語、アラビア語などの通訳者も常時依頼できるようになっていた。日本語もあったのでタイ語ができない私はその時日本語の通訳者を依頼したのだ。やがて通訳者がやってきた。そしてお互いに顔を見るなり、
「あっ、先生!」
「あれ、タナポーンさん!」と声を上げた。
1度目に勤務した大学でいっしょに日本語を学習した教え子がこの病院の通訳者になっていたのだ。
「ええー、先生の通訳ですかあ、恥ずかしいですう。」と彼女。
「久しぶりだね、通訳をしているんだ、すごいねえ。」とわたし。
そんなやり取りをしながら、診察を受ける。耳鼻科だから「外耳道」とか「鼓膜」とか、難しい医療用語もそつなく日本語に通訳してくれた。
「タナポーンさん、ほんとにわかりやすい通訳で、どうもありがとう。立派になっていてうれしいです。」
「そうですか、先生の通訳なのでとても緊張しました。でも喜んでもらえてよかったです。」
10年以上たってからの教え子との再会がこのような形で実現してほんとに感無量だった。大学で学習した日本語に、社会に出てからさらに磨きをかけて立派な生業としている姿を見ることができた。きっと大学で学んだだけでは通訳の仕事、それも医療通訳という特殊な分野の仕事をするのは簡単ではないと思う。おそらく想像以上の努力をしてきたんだろうなあと感じた、うれしい瞬間であった。
#韓国 #2000 #かん違い #敬語 #スーパー学習者 #HOSHI TORU
日本語学習のレベルに応じて、学習する方も気になるポイントが違うのは言うまでもない。学習レベルも「上級」から「超級」を目指すぐらいになると、「敬語をちゃんと使わなければ」と気にし始めるらしい。昔、韓国の日本大使館主催の日本語講座で教えていた時の事、上級クラスの授業で、ある学生が日本に研修に行っていた時のエピソードを語ってくれた。彼は韓国外交部(日本で言えば外務省)所属の若い外交官で、まあエリート中のエリートと言ってよかったのではないかと思う。話す日本語の流暢さもほかのクラスメートから抜きんでていた。彼の語ったエピソードは以下の通り。
彼が日本についたばかりのころ、あるレストランで食事をしていたときのこと。彼は所用で電話をしなければならなかったのを思い出した。(その当時、携帯電話と言うものはすでに存在していたが、現在ほど普及していたわけではなく、少なくとも彼はその時、携帯電話を持ってはいなかった)。そこで、この店に公衆電話があるはずと思い、ウエイターを読んで尋ねることにした。彼は初めての日本滞在で、とにかくきちんと丁寧な話し方をしなければと緊張していた。彼は言った『すみませんが、お電話、ありますか?』。それを聞いたウエイターはちょっと困った表情で答えた。『申し訳ございません。おでんは・・・当店では、ちょっと・・』
また別の晩、翌日が休暇だったので、以前韓国で知り合った日本人の友人に会いたいと思い、その友人から聞いていた自宅の電話番号に電話してみた。時刻は午後8時を回っていた。彼は友人の家族に失礼があってはならないと思い、緊張が高まっていた。電話がつながり、友人の家族らしい声が聞こえたので、彼はこう切り出した。『あ、もしもし、あの、ええ、お夜分、し、失礼いたします』・・・すると、電話の向こうで数秒間の沈黙が流れた後、電話は静かにぷつんと切れた。
これが彼の語ったエピソードである。この後、教室は、私も含めて、爆笑の渦に包まれた。実はこれが彼の日本での実際の体験談なのか、それとも作り話なのかはわからない。ただいずれにしても、日本語の使い手としての彼の才能には舌を巻くほかはなかった。その後の彼は、おそらく、敏腕の外交官として、その日本語力をいかんなく発揮したのだろうと思う。
#タイ #みうらたかし
タイの中部にある地方大学で教えていた時のこと。日本語での自分の呼び方についての話で、ふつうは「わたし」を使うが、友達同士などでは、女の人は「あたし」を、男の人は「ぼく」という言い方をする人も多くいる、などと紹介した。すると学生の一人が「せんせい! カッカナーン(仮名)さんは、何を使えばいいですか。」と質問した。カッカナーンさんは、いわゆるトランスジェンダー、体は男性だが、気持ちは女性かもしれない、といった学生だった。わたしが何と返事をしようかと思っていると、当のカッカナーンがとても明るい声で「せんせい!「ぼくし」はどうでしょうか。」と言ったのだ。「ぼく」の末尾に「あたし」の「し」を追加したのだろう。ほかの学生たちはそれを聞いて、「なるほど、それいいねえ」といいながら、うなずいていた。わたしはただにこにこしているばかりであった。
タイという国は、その理由は定かには知らないが、こういったトランスジェンダーの方々が、自分を隠すことなく生きていける社会であるように、私は感じている。町のあちらこちらで明らかにそうと思われる人々が、違和感なく暮らしているのをよく見かける。周りの人達もほんとに普通である。そういう社会に希望をもって世界中から人が集まってきているという話も聞いたことがある。
大学の教室にもいつも何人かはそういう学生がいる。教室の中でも、ご本人も周りの学生たちも、特に何の違和感もなく、日常を過ごしている。素敵な社会だな、と思ったことを思い出した。
このブログは海外で日本語を教えたり、海外で日本語を学ぶ人たちと関わったことのある日本語教師の、現地での忘れられない瞬間を共有する場所です。 あの時、あの場所での、忘れられない瞬間、心から離れないエピソード、目に焼き付いた情景、人生の宝物のような永遠に止まった時間・・・etc.e...