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2026年8月1日土曜日

アジュンマから電話です。

 #韓国 #2000 #ネイティブvsノンネイティブ #ご当地語 #そらみみ#かん違い#HOSHI TORU

私が韓国にいたのは時代が20世紀から21世紀に変わるちょうどその境目あたりだった。その当時、私はソウルの日本大使館付きの公報文化院、通称「日本文化院(イルボンムナウォン)」というところで日本語教育アドバイザーなるお役目を仰せつかっていた。ただし、そこには日本語教育というよりはもっと範囲を広げて、「日本語何でも相談室」的な問い合わせ電話や訪問者が毎日のように殺到した(というほどでもないが)。第2次世界大戦の悲しい歴史にもかかわらず日本語好きのおじいさんおばあさんが戦前から戦時中の読み物(「少年剣士」ものとか)を大事そうに持ってきて「ここの意味は何だ」とか、(超なつメロの)『ここに幸あれ』の歌詞のこの部分が分からないので教えてくれとか・・。事務所には、チュウミンジャさんというほぼ韓日バイリンガルで才色兼備の若い女性秘書(と思ったらとっくに一児の母だったと後で知った)がいて、電話の取次ぎから何から何まで、至れり尽くせりのお仕事をしてくれていた。

ある日、本当に、本当にビックリしたのは、その年の翌年に開催が決まっていたプサンのアジア大会の開催委員会の幹部の方からの問い合わせだった、電話での問い合わせを受けたチュウミンジャさんが、おもむろに私の方を向いて「先生、『おそそ』というのは女性性器のことですか?』と聞いてきた時だ。チュウミンジャさんは生まれも育ちも外見も心も、大和撫子も顔負けぐらいにお淑やかな女性で、そのチュウさんのお口からそのような言葉が飛び出すなんて、まさに青天のヘキレキのようなものだった。まあ、韓国人の女性は日本女性と比べて、何事にも屈託がないという証拠のようなものだった。もし日本人の女性秘書だったら、もうちっと、その、遠回しに聞いてきたのではないかと思います。要は、プサンの大会ポスターか何かのキャッチコピーに『OSOSO!』(オソソ!)という言葉を使う案があったらしいのだ。韓国語で『ようこそ』を表す『オセオセヨ』の短縮形らしいが、おそらくどこかの日本通がこのキャッチコピーに待ったをかけたということだったのだろう。ちょっと気圧されてしまった私は、インターネットで検索し、あたかも初めて知った風に、「是なり」とチュウさんに伝えた。

このチュウミンジャさんが、また別の日、電話を受けて、いつになく忌々し気な様子で、『先生、お電話です』と言ってきた。はて、先方の名前を確認しないなんてチュウさんらしくないなと思って、『え、どなたから?』と尋ねると、『アジュンマ』とチュウさんは吐き捨てるように言った。『名前を聞いても「アジュンマ」しか言いません。』韓国語で『アジュンマ』というとおばさんのことだが、これは日本語の「オバサン」同様、親戚のおばさんだけでなく、近所の、あるいは街を歩いている中年の女性を、親しみ(?)を込めて呼ぶ「オバちゃん」とか「オバハン」とか「オバタリアン」(古っ!)に匹敵する。『えー?いったいどこのアジュンマ?」と思って電話に出たら、一気に謎が解けた。なーんだ、それか。ちなみに、韓国人を教えたことのある日本語教師ならよくご存じと思うが、韓国人の発音の癖として「ズ」と「ジュ」が区別できない人が多い。さすがのチュウさんもその傾向からは逃れられなかったのだ。電話の相手は何のことはない。当時親しくしていただいていた日本語教師の「東(あずま)先生」でした。(^▽^)/


2025年11月11日火曜日

Your Lights!

 

#アメリカ #1980 #ネイティブvsノンネイティブ #ご当地語 #HOSHI TORU

外国語を学んでいる人が誰でも思うことは、「ネイティブってかっこいい!」ということではないだろうか。今でこそ外国語教育の世界では多様化が普通のこととなり、「ネイティブ神話」というようなイメージは否定的な扱われ方をしている。それでもなおかつ、真摯に外国語を学んでいる人は時として、やっぱりネイティブの喋りや発音にあこがれる気持ちは捨てきれず、「いつかあんな風にしゃべれるようになりたい」と思ってしまうものだ。発音だけではない。英語でいえば、いわゆる3人称単数現在の“-s”とか、過去と現在完了の違いとかをさまざまな場面に応じて普通に使い分けるのを目の当たりにして「かっけー!」と心の中でつぶやいてしまう。例えばアメリカで映画館の座席に座っていたとき、前を横切った夫婦が“Excuse me!”ではなく、普通に”Excuse us!”と言って通り過ぎたときなど、「おお、さすがネイティブ!」と感動した記憶がある。裏返して日本語の学習者から見れば、われわれネイティブ日本語話者があの訳の分からぬ「てにをは」を普通に使いこなしたり、自動詞と他動詞の不条理をものともせずに使い分ける等の技は、「日本人、かっけー」と思われているのではないだろうか。(ないか。)さて、アメリカ滞在中に「さすがネイティブ」と思わせられた極めつけの体験をご紹介しよう。今を去ること40年前のある夕方、サンフランシスコ郊外の住宅街を中古のポンコツ車を駆って家路を急いでいたときのこと、夕闇が思いのほか早く訪れていたのに気づかずヘッドライトを点けずに交差点を横切ろうとした瞬間、あやうく横断歩道に飛び出そうとした(たぶん)白人の男性が間髪を入れず大声で叫んだことばは、“Your lights!!!” だった。日本人だったら慌てて「ライト!」とか「あぶない!」ぐらいしか言えないシチュエーションである。この危機一髪の状況、こんな切羽詰まった状況でも、your+light+sという、いわゆる<所有形容詞+名詞+複数語尾>という由緒正しいネイティブしゃべりが咄嗟に出てくるんだという感動がいまだに心から消えない。

ノンネイティブの逆襲

 

#アメリカ #1980 #ネイティブvsノンネイティブ #ご当地語 #HOSHI TORU

ネイティブが絶対使わない教科書英語の筆頭といえば“What time is it now?”の右に出るものはない…と言われている。これを私は実際のネイティブスピーカーとのコミュニケーション場面で使ったことがある。例によって、今を去ること40年前、アメリカはオレゴン州のポートランドで一人暮らしを始めたころのことである。

ところで、電子時計やスマホが当たり前の現在では利用することはまずないだろうが、皆さんは電話の時報サービスというのをご存じだろうか。日本ではダイヤル117を回すと(押すと)「…ピッピッピ、ポーン、〇時〇分〇秒をお知らせします」というアナウンスが10秒刻みで一日24時間、一年365日、1秒も休まず流れている。このサービスは半世紀以上も前から電話回線を通じて行われていたが、電波時計のある現在でもまだ続いている。(ちなみに117番は時報、177番は天気予報なので念のため。)昔はこの時報サービスを聞きながら、自分の腕時計の時刻合わせをしたものだった。

さてアメリカ生活を開始した最初の週に時刻合わせをしようと思い、「この州では時報は何番にかければよいのだろう」と、イエローページを開いてみた。ご承知のように(?)広いアメリカでは州によって公共サービスのシステムが違うのと、日本よりも何十年も早く公共サービスの民営化も起こっていたらしい。その結果、電話帳で調べた時報サービスの番号は日本のように3桁ではなく、一般の電話番号のように市内局番から始まる8桁ぐらいの数字で、桁が多いだけに間違いやすい。しかも当時は「♪ダイヤル回して」かける式の電話機であったから、なおさら間違いやすい。かくして、私が回した番号の相手先は、時報サービスなどではなく、どこかの企業の事務所であった(らしい)。相手の声は、(おそらく)企業名や部署名のあと営業的な口上をペラペラ述べたらしく、もともと対話をする気ゼロの私には、何のことやらさっぱり聞き取れなかった。私は「失礼、番号を間違えました」と英語で言いたかったが、その言葉が思いつかない。それもそのはず。そのような表現は私の頭の中にインプットされていなかったのだ。ただ、だまって電話を切るにはあまりに良心の呵責があった。相手もビジネスとはいえあんなに愛想の良い声で応対してくれているのに…。そこで私が咄嗟にとった行動はというと、当初のミッションを完遂することであった。つまりこの相手に時刻を聞いてしまえば一石二鳥ではないか。そのとき私の口から出た言葉が例の“What time is it now?”であった。相手は、一瞬あっけにとられた様子で、3秒ほどの沈黙の後、たぶん“キミは時間を知りたいのね?”と言う意味の言葉を半ば悲しそうな声で念押しした後、時間を教えてくれた。まさにノンネイティブがネイティブを3秒間黙らせた「勝利の瞬間」であった(?)。ちなみに、教えてもらった時刻は、受話器を置いたとたんに忘れ去ってしまった。

「お・も・て・な・し」は「あ・り・が・た・め・い・わ・く」?

 

#アメリカ #1980 #ネイティブvsノンネイティブ #ご当地語 #発音#HOSHI TORU

今を去ること四十余年、生まれて初めて飛行機に乗り、生まれて初めてアメリカの地を踏んだ時の思い出である。若いころは「自分は月にも行かないし、外国にも行かない」と決めていた私だったが、諸般の事情から単身アメリカ行きの飛行機に乗る羽目になった。だから、ロスアンジェルス国際空港に到着したときは、英語のネイティブスピーカーに対する警戒心、恐怖心がマックスであった。一応渡米前に英会話を習い、TOEFLの試験も受けたが、どうせ自分の英語が通じるわけはないと思っていた。さて空港で一念発起してレストランで食事をとろうと思ったとき、大きなスーツケースをコインロッカーに預けたいと思い、さらに一念発起して、空港職員の制服を着ている黒人男性をつかまえて「コインロッカーはどこか」と問うてみた。どうやら「コインロッカー」が通じなかったと見え、その黒人男性はこちらをじっと見たまま何も言わない。「ロッカー、ロッカー」と繰り返してみたが、相変わらずこちらをにらんだまま何も言わない。心なしかその目には英語の下手な東洋人に対する差別的な雰囲気が漂ってきたように感じた。しまいには彼は何も言わぬまま鼻をひくひくと動かし始めた。これは、おそらく差別的態度をとられているんだと思い、何とかこの場を立ち去ろうと思い始めたとき、かれは突然晴れやかな笑顔になり、“Ah, Locker!”と言って、丁寧に方角を示してくれた。自分では”rocker”でなく”locker”といったつもりだったのに・・・。その数日後、ある大学の学生寮のなかのカフェテリアでの事。「これをください」と何種類かあるランチプレートから料理を選んだ。そこにいた黒人男性のアルバイトらしきスタッフから、サラダはいるのか、ドレッシングはどれにするか、スープはどうだ、飲み物はどうするという、お決まりの質問攻めが来た。ほとんどは何とか切り抜けたが、一つだけ彼が何を言っているのかさっぱりわからないので、何度も聞き返した。相手は何やら「テイトウ、テイトウ」というような言葉を繰り返している。「テイトウって何だ?知らない単語だなあ」・・・。最後に彼は見事に抑揚をつけた声でゆっくりと” p’Tei-Toe ”のような発音をして、ケースの中にあるマッシュポテトを指し示した。今思えば、彼はpotatoの発音が聞き取れない外国人のために、言葉を強調して発音してくれたのだが、その強調の仕方が、あくまで英語のアクセントや抑揚を際立たせる方式だったために、残念なことに日本人の耳には、余計に分かりにくくなってしまったのだ。外国人にはっきりわかるようにと思って、ネイティブが考える強調の仕方は、あくまでその言語の音声体系の特徴を際立たせるので、ノンネイティブにとっては逆に「ありがた迷惑」なケースも多いのではないか。そう考えると、日本人がノンネイティブに対する思いやりから、言葉を区切って強調する「に・ん・じ・ん」とか「お・も・て・な・し」なんかも、日本語のノンネイティブには「ありがた迷惑」かもしれない。

2025年3月7日金曜日

ベルト無いがあ!

ベルト無いがあ!

#バングラデシュ #1990 #タイムスリップ #そら耳 #ご当地語 #hoshitoru

バングラデシュに住んでいたのは1989年から91年の2年間、ちょうどヨーロッパではベルリンの壁が崩壊してからソ連邦が解体されるまでの間、日本では高度経済成長が完成し、バブルの絶頂期に向かう時期だった。一方バングラデシュは、そんな世界の情勢にはお構いなく、十年一日、いや百年一日のごとく経済は停滞し,社会は閉塞していた。そんな世界で自家用車のオーナーになるのは当時のバングラデシュの庶民にとっては高嶺の花なのだが、私は日本車のオーナードライバーであった。といっても超中古のポンコツのダイハツシャレードを乗り回していただけだが、少なくとも私の車はフェンダーミラー付きではあった。なぜフェンダーミラー付きとわざわざ断るかと言えば、当時首都ダッカの町を走っていた車の、とくにタクシーのほぼ100%はフェンダーミラーがなかった。おそらく現地の中古者ディーラーが取り外して家庭用の鏡として売り飛ばしたか、運転手自らが自分の家の洗面台用に使っていたかのどちらかである。ちなみに運転席のバックミラーはついてはいるが、それは決まって明後日のほうを向いている。つまりダッカの運転手はミラーというものを見ないのだ。バングラデシュの車社会には独特の文化があって、日本とは全く違っているのだが、こんなバングラ話をするとたいていはホラ話と思われるに違いない。例えば、左右の指示灯を点滅させる、いわゆるハザードランプはバングラデシュでは直進の意思表示に使われる。また、クラクションは主に車道を平気で横切ろうとする歩行者を追い払うために使うのだが、もう一つの機能として、車が発進するときの掛け声代わりに用いられる。そのため、交差点で止まっていたすべての車が、信号が青になったとたんにハザードランプを点滅させながら、一斉にクラクションを鳴らすという現象が起こる。

ところで、現地の言葉であるバングラ語は日本語とは全く系統の異なるサンスクリット系の言語だが、たまたま日本語と類似している特徴もある。例えば語順は日本語と同様SOV(主語―目的語―動詞の順)だし、否定の助動詞は文末にーnaまたはーnaiをつける。例えば、「私はご飯を食べる」は”Ami(私)Bhats(飯)Kai(食べる)”だし、「私はベンガル語を話さない」は”Ami(私)Bangoli(ベンガル語)Bori(話す)Na(ない)”である。ついでにお茶はベンガル語でも”Cha”と言い、「お茶が無い」は”Cha(茶)Nai(無い)”だ。

ある日のこと、私のポンコツ車がモウレツ元気がないので、かかりつけの修理屋に持っていった。その修理屋は、わがポンコツ車のつるつるになっただるまタイヤがパンクするたびに何度も何度もゴムで穴を塞いで再生してくれたすご腕の職人だ。彼はその時、車のボンネットを開けたとたん、口をあんぐりとあけて「ベルト無いがあ!」と叫んだのだ。一瞬私はタイムスリップした心持ちになった。「え、ここはどこだっけ?たしか、日本ではないはずだが…。」しかし、そこはまぎれもなくバングラデシュのダッカだった。そのおっちゃんはまぎれもないベンガル語で”Beruto(ベルト=空冷のファンベルト)Nai(無い)Ga!(感嘆詞)”と言ったのだった。


2025年2月27日木曜日

さまよえる日本人教師

#タイ#1996 #悪夢・トラウマ #迷子 #ご当地語 #文字・数字・番号 #hoshitoru


 この歳になるまで(どの歳だ?)長い間、日本語教師をしてきたが、30年前にタイの大学で日本語を教えて以来、いまだに繰り返し見る悪夢がある。それは「ある朝」の大学の1限の授業開始の5分前という緊迫した状況からスタートする。今日の担当クラスの教室はどこだったか、教員室の壁に貼ってある教室一覧表を見るのだが、さっぱりわからない、さて困った。当時、困ったときは、いつも同僚のタイ人教師に聞けば大抵の問題は解決するのだが、朝は皆、早々に自分の受け持ちのクラスへ行ってしまい、教員室にはだれもいない。そうこうしているうちに授業開始1分前になり、ついには開始時間が過ぎてしまう。とりあえず、先週と同じ教室に行けばよいだろうと思い、教科書と大量のプリントを抱えて廊下を歩き始めるのだが、はて先週の教室は何階だったか?、地下だったか?、あてずっぽうで行ってみるが、どうもそれらしい部屋が見当たらない。他のフロアも試してみるが、日本語の授業をやっていそうなところはどこにも無い。大学の建物は巨大で、しかもいくつかの棟が複雑につながっている。いつかは自分のクラスを発見できるだろう、顔見知りの学生たちがいたら入っていって、さて何て言い訳したらいいだろう?などと考えながら、速足で歩くのだが、一向に目的地に到達しないまま授業時間が15分、20分と過ぎてゆく。そもそも自分の目的地はどこなのか。夢の中の自分は焦りながらも「まるでカフカの小説の主人公みたいだ」などとくだらない妄想に少しだけ浸る。人間、焦りが極限に達すると、どうでもいい無意味なことを考えるという「自己制御本能」が発動するらしい。「うむ、さすがにこの時間になると学生の誰かが、異変を感じて教員室へ向かっているのではないか」とは思うものの、今から教員室に戻るのにさらに20分以上かかるだろう・・・。その上、今自分がいる場所から元の教員室にちゃんと戻る自信すらない。このまま授業の終了時間まで、いやきっと永久に、自分はどこへも到達できないだろうと、まるで砂漠の中心で叫んでいるように、キャンパスの一角で絶望している自分がいる・・・というのが、ざっとかいつまんだエピソードである。 

この悪夢は、夢らしくかなりの誇張があるにしても、タイ時代に実際に経験した事実に基づいている。この経験が自分の中でトラウマとなり、夢の中での自分は、迷路のような大学構内を亡霊のように永遠にさまよい続けているのである。繰り返し見る夢は、タイの大学ばかりでなく、他の国での所属機関であったり、日本の、その時その時に所属している日本語学校だったりと、さまざまなバリエーションがある。

そもそも、なぜこのような事態に至ったのか。それはひとえに当時の(今はどうか知らない)タイという国では、日常的に使う数字がアラビア数字でなく、タイ独自の数字を使っていたからなのである。というか、より公正な言い方では、タイへ赴任する際にタイ数字を学ばなかった自分が悪かったのである。タイ数字が読めなければ、教室番号も読めず、教室が探せないことは自明の理である。あの42個の子音と9個の母音や声調記号が組み合わさったタイ文字の勉強はある程度したものの習得したとは言い難い。しかし数字のほうは十数個覚えればよいわけで、頑張ればマスターできたはずなのに、あえて覚えようとしなかった自分は、タイ数字を甘く見ていたのだ。自分の中で、「世界ではどの地域でもアラビア数字が主流で、その国独自の数字があったとしても、日本語の漢数字と同様、やや特殊なケースしか使われないのだろう」という予断があったのだ。こうした予断はものすごく危険であると、今となっては声を大にして言いたい。タイだけではない。バングラデシュなどのサンスクリット語圏や、その他の東南アジアの国でも独自の数字がある言語は珍しくない。これからアジア圏へ出かけていく皆さんには是非とも申し上げておきたい。その国の言葉はマスターしきれなくとも、とりあえず数字だけは必ず覚えて行ってください!いいですか。

2023年11月16日木曜日

センセ、ニホンゴ、ムズカシッ!

 #バングラデシュ #1990 #ご当地語 #日本語ムズカシイ #名前 #HOSHI TORU


ニホンゴムズカシイ問題の第2弾。バングラデシュの教え子(女子)の話。

バングラデシュ人の自慢の一つは「ベンガル文字は世界中のあらゆる言語を記述できる」と言うことなのだが、それが正しいか正しくないかはここでは問題にしない。私が教えていたダッカ大学現代言語研究所の学生はモスリム系の男子学生が大半で、女子は少数だし、ヒンドゥー系の学生も少数であった。しかし、私の教え子の中に、「ビューティー」と言う名の、ヒンドゥー系の女子学生がいた。当時のバングラデシュの流行なのかどうかわからないが、特にヒンドゥー系の女の子で、BeautyやLovelyなどカワイイ系の英単語をベンガル文字に直した名前を時々見かけた。保守的で戒律に厳しいヒンドゥー教徒にしては意外な気もするが、さしずめ日本のキラキラネームみたいな感覚で、かわいい我が子の名づけのトレンドになっていたのかもしれない。実はビューティーというベンガル文字の表記を、自分の乏しいベンガル語の知識で分解し、ひらがなに再構成すると「びうてぃ」と言った感じだ。なーんだ、カタカナのほうがbeautyに近いんじゃないかと無意味な優越感に浸ったものだが、それはさておき、このびうてぃが、それはそれは美しい女子(おなご)で、我々が思い描くインド系の若き美女の要素をすべて兼ね備えていたのだ。どのくらい美しいかと言うと・・・(ここで私が下手な描写をするよりは、「インド系の若き美女」を、皆さんが各自思い描いて頂ければよいかと・・・。)

さて、このインド系の若き美女びうてぃが、日本語の授業に来たのは後にも先にもほんの1、2回だったのだが、その1回目の授業の時、この絶世の美女が次のようにのたまったのである。曰く、『センセ、ニホンゴ、ムズカシッ。』もちろん、このようなコメントはかつて何十人もの教え子から耳にタコができるほど聞きなれてはいたのだが、なにぶんびうてぃであるし、この時、びうてぃはそう言いながらプイと拗ねたように顔を後ろに背けたのだ。その姿があまりに愛らしいので、つい「ごめんね、先生が悪かった、次はもっと易しくしてあげるからね」と言いそうになった。なにぶん、私もその当時すでにけっこうなおじさんに達するお年ごろであり、愛らしい女子に対する耐性と言うものがすっかり弱まっていた時期で、その女子のしぐさにメロメロになった忘れられない瞬間であった。

2023年11月8日水曜日

まあ、いいや

 

#タイ #1997 #かん違い #ご当地語 #発音 #日本語ムズカシイ #HOSHI TORU

 

日本語教師ならだれでも経験があるだろうが、日本語コースの初級後半とか、中上級ぐらいになった学生から「日本語は難しい」とか「難しすぎる」とか、弱音とも抗議ともつかないコメントを聞かされることがある。時によっては初級の最初の段階から、そういうことを言ってくる学生がクラスに一人ぐらいいることもある。そうしたときにどういうリアクションをとるかは教師によっていろいろだと思うが、私の場合、おおむね「日本語が難しいんじゃなくて外国語はみんな難しいんだよ。あなたたちは日本語が難しいと思っているけれど、私から見れば○○語(学生の母語)のほうがずっと難しいと思うよ。私の○○語より、あなたの日本語のほうが100倍じょうずだよ。」というような答えでお茶を濁している。あるいは居直り方式をとって「難しいでしょ?だから勉強するんでしょ?簡単なら学校に来なくても一人で出来るでしょ?難しいから面白いんじゃないかな。」みたいな。実のところ、一番声を大にして言いたいのは「日本語が難しいだって?そんなの私のせいじゃないから」と言い放ってしまいたいのだが。

タイのバンコック郊外にあるタイ商工会議所大学と言う、比較的裕福な会社経営者の子女たちが多く通う大学の日本語学科で教えていた時がある。ある夏、普段の日本語専攻の学生ではなく、他学科の教養科目として日本語の短期コースを担当したことがある。ほとんどはゼロ初級の学生ばかりで、初日はお決まりの挨拶と自己紹介から入るはずだった。ところが出席をとり終わって、いざ授業にかかろうというところで、1人の男子学生が「先生、日本語は難しいですね。」と英語で話しかけてきた。ゼロ初級なので英語なのだが、その当時のタイでは英語でコミュニケーションの取れる学生はそれほど多くなかった。ゼロ初級なのになぜ日本語が難しいという判断ができるのか興味深かったが、私はとりあえず上に書いたような受け答えをして、早く授業に入ろうと若干苛ついていた。英語でやり取りをしているうちに、もう授業時間が15分以上過ぎてしまっていた。ほかの学生の手前もあり、このやりとりをもういい加減切り上げたかったのだ。そこで、彼はまだ何か言っていたが、私は「まあ、いいや。それでは、みなさん・・・。」と全員にむかって切り出した。すると、件の男子学生が、どうやらさらに食い下がってきた。今度はタイ語で「ヤーㇰ!ヤーㇰ!」と言っている。『ヤーㇰ』がタイ語で「むずかしい」の意味だということは知っていた。語末の小さい「ㇰ」はいわゆる内破音と言って、破裂音の「ク」と調音点は同じだが、息を外に出さず口の中で呑み込むように発音するので、外からは実際には聞こえない。

「そうか!」その時私は気が付いた。私が「まあいいや」と言ったのを彼はタイ語の「マイ ヤーㇰ」(「むずかしくない。」マイは否定の助動詞)と聞いたのだ。日本語の(関東語の)イントネーションで「まあいいや」と言うと、まさしくタイ語の、正しい声調の「マイ ヤーㇰ」の発音に聞こえてしまうのだ。

2023年10月24日火曜日

恐るべき鼻声リピート:パプアニューギニア大学の学生たち


#パプアニューギニア #1993年 #健康 #発音 #かん違い #日本語地球カフェ #みうらたかし

海外日本語教育学会提供YoTubeラジオ「にほんご地球カフェ」コートジボアール編で安高さんがお話になっていたことと似たような経験が私にもあったことを思い出しました。ちょこっと書いてみます。 

 ずいぶん前の話だが太平洋ニューギニア島の東半分にあるパプア・ニューギニアという国の、唯一の総合大学パプア・ニューギニア大学で日本語を教えていたことがある。日本から5000キロ余り離れたその島国での生活は短い紙面では語り切れない多くの逸話があるのだ、きょうはわたしの日本語教室で実際にあった忘れられない瞬間の話である。

 パプア・ニューギニア大学はもう一度言うが、私がいた当時はこの国唯一の総合大学であった。全国から選りすぐられた優秀な学生が集まっている。この国には言語が700もあるといわれていて、学生たちもみんな一人で4つも5つも言語を操る。自分の出身部族の言葉すなわち母語、学校教育はすべて英語で行われているので流暢な英語、山間部の共通語であるニューギニピジン、沿岸部の共通語であるモツ語、それに器用な人は母方の部族語や隣の部族のことばも話す人もいた。つまりもともと異なる言語を理解したり話したりするのはお手の物という感じだ。

 ある日わたしはひどい風邪にかかっていた。咳が出て鼻が詰まり少し体もだるかったのだが、なにせ日本語の教師はここには私一人である。無理をして授業に出た。教室に入れば元気な学生たちがいるのでいつもと変わらず授業した。

わたし:「はい、わたしの後からいってください。あしたオーストラリアへいきます。」

学生全員:「あしだ、オースドラリアへいきむあす。」

この瞬間わたしは何が起こったのか大変困惑した。学生たちのリピートが見事な鼻声だったのだ。それも全員同じようなきれいな鼻声で、「あしだ、オースドラリアへいきむあす。」

 そうか、わたしはひどい風邪で鼻が詰まっていたので、私のモデルがひどい鼻声だったのだ。それにしても、学生たちの耳の良さには感服だ。みんな語学の習得には慣れているとは思ったが、ここまで正確に音をまねることができるとは。

 その日はもう発話練習をすることはあきらめて、文化の話や文字の練習をすることにした。ここには日本語教師は私一人、在住の日本人も本当に少ない。つまり私の日本語が、日本語のすべてであるといっても過言ではないのだ。なにかしら肝に銘ずる出来事であった。

私の忘れられない瞬間!

 このブログは海外で日本語を教えたり、海外で日本語を学ぶ人たちと関わったことのある日本語教師の、現地での忘れられない瞬間を共有する場所です。 あの時、あの場所での、忘れられない瞬間、心から離れないエピソード、目に焼き付いた情景、人生の宝物のような永遠に止まった時間・・・etc.e...